木曽町市街地の「行人橋歩道橋」をスタートし、祈りの文化を辿りながら「中の湯」まで至る全長26.8kmの古道。江戸時代後期の1782年、それまでは厳しい修行を経た行者のみが通っていた登拝の道を覚明行者が改修したことをきっかけに広く庶民に知られるようになりました。脈々と受け継がれてきた信仰の歴史と神秘的な風景が広がる美しい古道を文筆家の大内征さんが歩きます。
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かつての福島宿(現在の長野県木曽郡木曽町福島)と黒沢・王滝を結ぶ交通の要所として、御嶽登拝を目指す人々が数多く渡ってきた橋。御嶽街道の起点とも位置付けられており、聖域への入口として大切に守り継がれてきました。周囲には河岸の急峻な崖に立つ崖家造りの民家が今なお連なっています。
住所:長野県木曽郡木曽町福島5235 Googleマップで見る
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八久保峠の南端、清見山山頂(900m)にあるお社。「国常立尊」「大己貴命」「少彦名命」の3神が習合した「御嶽山座王大権現」を祀った祠や、覚明行者・普寛行者の石碑が佇んでいます。かつては御嶽山を眺めることができ、祈りの場として賑わったそうです。
住所:長野県木曽郡木曽町福島川合7205 Googleマップで見る
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合戸峠にある御嶽山遥拝所跡。御嶽登拝最盛期には、鳥居やお社、茶屋があり、御嶽山を目指す人々の休憩地として賑わっていました。今も残る鳥居の礎石や霊神碑が往時の面影を伝えています。北側に望む御嶽山、南東側に望む木曽駒ヶ岳の山容はまさに絶景です。
住所:長野県木曽郡木曽町三岳下殿 Googleマップで見る
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御嶽神社里宮そばにある別宮。美しい杉木立が連なり、近くには古代住居跡も発掘されています。杉木立の中をまっすぐ伸びる参道では、かつて流鏑馬神事が行われていたとも。社殿には、かつてこの地を治めた戦国武将、木曽義昌が奉納した三十六歌仙の絵馬が飾られています。
住所:長野県木曽郡木曽町三岳6189 Googleマップで見る
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日の出滝近くにある神社。周囲には、多くの霊神碑が立てられており、その雰囲気はまるで異世界に迷い込んでしまったようです。子宝・安産祈願にご利益があるとされ、今も出産を控えた妊婦さんがさるぼぼのお守りを持ち帰る風習が残っています。
住所:長野県木曽郡木曽町三岳屋敷野2841-9 Googleマップで見る
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「油木美林遊歩道」にある落差15mの滝。「百間滝入口バス停」から遊歩道を進み、約300mで到着します。苔むした岩の間を流れる清流と美しい原生林、木漏れ日が作り出す風景はまさに幻想的。疲れた足を清流に浸し、ちょっと一休みするのもおすすめです。
住所:長野県木曽郡木曽町三岳 Googleマップで見る
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「こもれびの滝」から「油木美林遊歩道」を約150m奥に進んだ場所にある滝。苔むした岩肌から伏流水が無数の筋となって湧出し、不思議な景観を作り出しています。滝の裏側には大きな窪みがあり、かつて修行者が滝の裏側で修行していたとも伝わっています。
住所:長野県木曽郡木曽町三岳 Googleマップで見る
文・大内 征(低山トラベラー)
写真・吉田 智彦
いま、ぼくの手元には御嶽山の『山と高原地図』がある。捨てられずに保管している2012年版、そしてアップデートした2021年版の地図だ。木曽御嶽と言った方が通りがいいかもしれない。なにしろ“御嶽”と表記する山は全国にたくさんある。その読み方は主にふた通りあり、ひとつはミタケと読む山、もうひとつがオンタケと読む山だ。木曽御嶽は、その後者の源流である。
なぜ、読み方がふた通りあるのだろうか。そもそもミタケとオンタケとは、何なのか。ささやかなその疑問に対する答えを、“ミタケ”のルーツからひも解くことができる。
木曽駒ヶ岳の西側に、圧倒的な存在感を放つ木曽御嶽。独立した巨大な山容は、まさに王の風格だ(写真提供:大内征)
ミタケとは、神の坐す山を意味する。その神とは、奈良は吉野の金峯山において役小角が示現した金剛蔵王権現であり、この神を勧請した山を“ミタケ”と呼ぶのだ。あてられる漢字は御嶽に限らず、御岳や三岳といった書き方もされるほどに多様。こうした山は日本中にあり、諸国を代表するミタケのことを「国御嶽」といった。たとえば武州こと東京の御岳山もその一座だし、甲州御岳こと金峰山もその代表例である。
そんな国御嶽の中でも飛び抜けてスケールの大きい山容を誇る木曽御嶽は、まさに王の風格を備えたミタケということから“オウノミタケ”と修験者たちから呼ばれたそうだ。いつしかそれが転訛して“オンタケ”になったという。江戸後期になってこの山の信仰は日本中に開かれ、思いを胸に頂を目指す登拝者で賑わった。みな親しみをこめて「木曽のおんたけさん」と呼び、その尊崇と畏怖は、現代にもしっかりと受け継がれている。
木曽から遠く離れた宮城に育ったぼくにとって、意外なことに“オンタケ”の響きは耳に懐かしい。それというのも、地元に御嶽神社があったからに他ならない。少年期はその神社の境内で遊んだことがあるし、青年期になって木曽御嶽には何度も登った。手元に地図があるのは、そうしたいきさつと個人的な思い入れがあったからなのだ。
信仰の歴史だけではなく、街道や宿場の文化に触れることができるのも御嶽古道の魅力
そんなぼくはいま、人生の壮年期のど真ん中にいる。自分のライフステージ毎に縁を感じる木曽御嶽にふと会いに行こうと思ったのは、自然な成り行きなのだと思う。
山は富士、嶽は御嶽という。富士山は一合目から五合目までの間に歩き旅の楽しみが凝縮されているけれど、御嶽の麓だって同様の魅力に事欠かない。地図には、すでに印をつけている。木曽福島の行人橋にはじまり、それから八久保峠、合戸峠、御嶽神社若宮と里宮、別殿、二合目、三合目、四合目、そして六合目中の湯。その先の七合目行場山荘でロープウェイからの登山道と合流し、御嶽山頂まで道は続くのだ。この道を「御嶽古道」といい、いまは黒沢口コースとして整備されている。
この地域を地図で俯瞰してみると、東に木曽駒ヶ岳、西に木曽御嶽が聳えていることがわかる。その間を流れる木曽川によって浸食された巨大な地形が木曽谷で、そこに中山道と福島宿が位置しているわけだ。御嶽古道の黒沢口コースは、まさにこの福島宿がスタート地点となる。
歩いてみると街には情緒があり、建築物や酒など山間ならではの文化が熟成されている。中山道の発展によって人と物が集まり、歴史物語と暮らしの知恵が磨かれた結果なのだと旅心が刺激される。歩き始めからワクワクするではないか。
黒沢口の起点、行人橋。ここを渡って木曽川の右岸を歩く
川沿いの断崖に立ち並ぶ圧巻の「崖家造り」は、京都伊根の舟屋を思い起こさせる
中乗さんは、御嶽山系の伏流水で仕込まれる地元の名酒。日本酒好きのぼくは、宿で楽しみ、お土産でまた楽しんだ
山を歩くことでしか受け取ることができない自然ならではの力というものがある。土の匂いや風の音、野鳥のさえずり、木々の香り、木漏れ日、石清水、ときに遠雷さえ、いい影響と緊張となって身心に染み入ってくる。ぼくらを優しく包み込んでくれる御嶽の強大なパワーに、自分自身も自然の一部であることを教わるようだ。
沢や樹林には、うっかり見過ごしてしまいそうなほど自然と調和した石仏や社が多く点在する。苔を纏っていたり、木の根が張っていたり、草花が絡んでいたり。いつかの時代のどこかの誰かが、意図をもって施した信仰の証し。長い時間をかけて自然に溶け込み、その一部になってしまった人工物。そのひとつひとつに歴史背景があると思うと、なんだかロマンを感じてしまう。
窟屋に佇む石仏。清浄な空間で耳を澄ますと、石清水が滴る小さな音が心に届く
すぐ下りられる沢があった。このときぼくは、山遊びの原点だった少年期の渓流釣りを思い出していた
鬱蒼としたスギとヒノキの樹林帯を歩いていると、強烈な夏の陽射しが森を射抜いた
御嶽古道を歩いていてもっとも驚くのは、おびただしい「霊神碑」と神像の数々だろう。その数、二万基とも三万基ともいわれている。
言葉にすることが難しいほどの、御嶽信仰のエネルギーに圧倒される。ここは宇宙かと感じるほどに異世界だった
霊神碑とは、御嶽を信仰する者の魂が、死後この山で安らかに鎮まることを願って建立された石の依り代だ。魂の依り代という点で、お墓とは異なる。
特に、十二大権現から大祓滝の区間は、息を飲むほどに荘厳で素晴らしい。ぼくは無数の霊神碑の中にひとり身を置き、静寂に包まれながらしばらくそこに佇んだ。周囲の空気はあたたかく、とても和やかな雰囲気。実はそれらは霊神碑なのではなく、生きた人間そのものなのかと思うくらい、生命を感じたほどだ。登山客で賑わう七合目登山口から木曽御嶽に登っただけでは知ることのできない、まるで音のない宇宙のような空間。これを感じるために御嶽古道を歩く価値は、大いにある。
足下を照らす木漏れ日に導かれながら108段の石段を登り、御嶽神社里宮を詣でる
覚明行者を祀る開山堂にて。ここには「手形」のついた石も残っている
ところで、この御嶽という山は特別な霊山として管理され、百日におよぶ厳しい重潔斎をしなければ山に入ることはできない、そんな時代が長かった。江戸後期になり、それまで麓から遥拝していた庶民の間にも、登拝を願う人が出はじめる。百日におよぶ重潔斎は、そんな願いを持つ人々の前に大いなる壁として立ちはだかった。そこに現れたのが覚明という僧だったのだ。
慣例を破って山に入るため周囲の理解はなかなか得られず、山頂までの道をひとり開拓する覚明だったが、度重なる苦難と挑戦を続けていく過程で仲間が増えていき、ついにはこの黒沢口の道を拓いた。この開山の功績によって、庶民でも滝行などの軽い精進で登拝することができるようになったわけだ。現代の御嶽登山につながる歴史的な偉業のひとつだと、ぼくは思う。
そういえば、途中で訪れた御嶽神社別殿に、そんな覚明さんが亡くなるまで使っていた鉄製の金剛杖があった。ズシリと重いこの杖を持ったぼくの脳裏に、険しい御嶽の山肌で陣頭指揮を執り、仲間を鼓舞する覚明さんが思い浮かんだ。この杖で岩を砕き、身体を支え、なお前進するその姿に、勝手ながら勇気をもらったのは言うまでもない。
覚明行者、御嶽開山の大業を志したのが48歳のときのこと。なんと、いまのぼくと同じ年齢である。
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